渋谷は、人が多すぎると、誰もいない場所みたいに見える。
巨大な画面では、道哉が笑っていた。数時間前まで別の広告が流れていたはずの場所に、今はBloomの九人が順番に映り、最後に全員が並んだ。道哉だけは休養中のままだったが、映像の中の彼は何度でも同じ角度で振り返り、同じ速度で目を細めた。
澄香は紫色のスマートフォンケースを胸の前に持ち、花道の仲間たちと、写真を撮れる場所が空くのを待っていた。
白い服を着た人たちが、交番の近くに集まっている。メガホンから割れた声が出ていた。言葉はところどころしか聞こえない。倫太郎、真実、奪われた、私たちは忘れない。スマートフォンを向けている人は多かったが、聞いている人がどれくらいいるのかは分からなかった。
少し離れたところに父がいた。
久保田慶彦は、何かを見に来た人のふりをして立っていた。黒いコートのポケットに両手を入れ、Bloomの広告を見上げたかと思えば、イベントスタッフの出入り口へ視線を移した。澄香は父を見つけたあとも、声をかけなかった。父も気づいていないようだった。
どうしてここにいるのだろうとは思った。でも、月に一度のビデオ通話で聞くほどのことでもないような気がした。父には父の、説明しても仕方のない用事があるのだろう。澄香にも、母には説明していない用事がたくさんあった。


最初に走ったのが誰だったのかは、誰にも分からなかった。
「見かけたって!」
「え、誰を?」
「道哉くんじゃない?」
声は、スクランブル交差点とは反対側から聞こえた。人の肩と肩のあいだを、黒い帽子が一瞬だけ通ったようにも見えたし、ただのスタッフだったようにも見えた。
「もしかして今日、サプライズなんじゃない!?」
「復帰するってこと?」
「あっち行った、今!」
澄香の隣にいた女の子が、ほとんど反射で一歩前へ出た。誰かが走ると、その後ろにいた人には、走るだけのものが実際に見えたのだと思えた。三人が動き、十人が続き、後ろの人は何も聞こえないまま、前で何かが始まったことだけを理解した。
白い服の集団にも、「見かけた」という声だけが届いた。
「倫太郎くん?」
「今、倫太郎くんって言った?」
「やっぱり、今日だったんだよ」
誰も、倫太郎の名前を叫んではいなかった。けれど、そんなことはもう確かめようがなかった。
死んでいる人がいるはずはない。休んでいる人がサプライズで出てくるはずもない。頭では、ほとんどの人が分かっていた。分かっているからこそ、もし万が一本当だったときに、自分だけ確かめなかったことには耐えられなかった。
花道の紫と、白い服の人たちが、同じ狭い通路へ向かった。
隅川絢子は、最初は動かなかった。周囲の人の顔を見て、何かを聞こうとした。けれど、いづみが彼女の腕をつかみ、人の流れがそのまま背中を押した。絢子は転ばないために足を前へ出した。前にバリケードがあった。誰かが押した。傾いた柵を支えようとして、絢子も手をかけた。
後ろからさらに押された。
金属の脚がアスファルトを擦り、嫌な音を立てた。柵は、支えられたのか、倒されたのか分からない形で横になった。
悲鳴が上がった。
スマートフォンが一斉に高くなった。
澄香も、ほんの数秒、画面を向けた。
道哉が本当にいるなら見たいと思った。何が起きたのか知りたいと思った。こんな騒ぎになっている人たちを、自分は少し離れたところから冷静に見ているとも思った。
画面の下の方で、紫色の小さなものが消えた。


中学生くらいの女の子が、倒れた柵のそばに座り込んでいた。
澄香はスマートフォンをバッグへ入れた。人の腕を避け、誰かの肩を押し返しながら、女の子のところまで進んだ。
「大丈夫?」
女の子は答えなかった。白い靴下の膝が破れ、血が細く流れていた。けれど、彼女が見ているのは傷ではなく、地面だった。
透明な破片が散らばっていた。
道哉のアクリルスタンドだった。顔の真ん中から斜めに割れ、台座は誰かの靴に踏まれて白く曇っていた。
「ごめんなさい」
「道哉くん、ごめんなさい、ごめんなさい」
女の子は膝をついたまま、破片へ手を伸ばした。澄香はその手首をつかんだ。
「待って。切れるから」
「でも、顔が」
「顔より、今はあなたの膝だよ」
言ってから、少しきつかったと思った。もう少し優しい言い方があった気がした。でも女の子は、澄香の顔を見て、それから澄香のバッグについた紫色のリボンを見た。
「ちゃみするさん?」
騒ぎの音が、一度遠くなった。
「……なんで分かったの」
「昨日、写真に写ってたから」
女の子の手首には、澄香が作り方を投稿した紫色の細いブレスレットがあった。結び目が少し緩く、手の甲まで落ちていた。
「投稿見て、来ました。今日、来られる花道は来た方がいいって。人数が、道哉くんの力になるって」
澄香は、そんなふうには書いていないと思った。
来られる人で盛り上げよう。道哉くんに景色を見せたい。来られない人の分まで。たしか、そのくらいだった。来なければファンではないとも、一人で来いとも、中学生が親に嘘をついて電車に乗れとも書いていない。
書いていない。けれど、書かなかったことは、届かなかったこととは違う。
澄香は女の子の膝へハンカチを当てた。女の子は痛そうに息を吸った。それでも視線は、割れた道哉の顔へ戻ろうとした。
「道哉くんに、嫌われる」
「そんなことで嫌わないよ」
「でも、大事にできなかったから」
そんなことで嫌うはずがない、と澄香はもう一度言いかけた。
では、自分は何をしたときに、道哉から嫌われると思っていただろう。動画を回さなかった日。追加でCDを買えなかった月。授業を優先した時間。疲れて新しい投稿を追えなかった夜。道哉が一度も求めていないことをやめるたびに、自分の中の道哉が少しずつこちらを見なくなるような気がしていた。
女の子の歪みは、澄香よりも小さくて、だから隠す場所がなかった。
「痛いって言っていいんだよ」
女の子は、そこで初めて自分の膝を見た。
久保田は、倒れたバリケードを起こしていた。
スタッフの一人が、当然のように彼へ声をかけた。
「久保田さん、こっち、車道側を空けます」
「救急が入る。撮影の人を一回下げて」
父の声は、澄香が知っている声より大きかった。ビデオ通話の中で、話題を探している人の声ではなかった。
久保田がこちらを見た。
視線が合った。
父の顔に、驚きと、何かを確かめたような表情が同時に浮かんだ。澄香は、自分がちゃみするだと気づかれたのだと思った。どうしてそう思ったのかは分からなかった。けれど、父が自分の知らない場所から、自分をすでに見ていたような気がした。
「なんでここにいるの」
久保田は答えなかった。否定もしなかった。
「その子、歩けるか」
「分かんない」
「人の少ないところに移そう。俺が前、空けるから」
澄香は女の子の肩を支えた。久保田が先に立ち、スタッフの名前を呼び、通る場所を作った。
どうして父がスタッフの名前を知っているのか。どうしてBloomの人間のように動けるのか。自分が道哉に救われたと感じたあの動画も、同じ誕生日も、同じ言葉も、父のいる側で選ばれ、並べられ、こちらへ届けられたものだったのか。
疑問は、答えにならないまま、澄香の中でつながった。
そのつながりが正しいかは分からなかった。今まで好きだったものが全部嘘になるわけでもなかった。作られた言葉に本当に救われたなら、救われたことまで偽物にはならない。でも、救われた人が、次の誰かをここまで連れてきてしまうなら。本人が望んでいないことを愛だと呼び、自分を削った量を気持ちの大きさだと数え、そして削れた自分を見ないまま、割れたアクリルの顔に先に謝るようになるなら。
なんでこんなことになったんだろう、と澄香は思った。
道哉を見つけたとき、自分は何かを捧げたかったのではない。何も持っていないように感じる自分のままでも、明日まで行けると思いたかった。周りの正しさから少し外れた自分を、いったんそのまま置いておける場所が欲しかった。あの人がうまく喋れないまま立っていたから、自分も、うまくできないまま立っていてよい気がした。
それは、ちゃんと自分のためだった。
自分のために始めたはずの好きが、いつから、自分を後ろへ押しやるものになったのだろう。いつから、道哉を真ん中へ置くためなら、自分の睡眠も、お金も、友達も、父への嘘も、画面の外へ追い出していいと思ったのだろう。
好きな人を大きく映すたびに、自分の顔が少しずつ見切れていった。
女の子を壁際の安全な場所へ座らせると、別の女性が近づき、「大丈夫ですか」と声をかけた。少し離れたところでは、誰かが倒れた柵を持ち上げ、後ろの人へ下がるよう伝えていた。
まだ騒ぎは収まっていなかった。遠くでまた、「いた」という声がした。何を見たのか分からない声に、人の波がもう一度動きかけた。
道路の上に、白いメガホンが落ちていた。
絢子たちが使っていたものだった。持ち手にひびが入り、スイッチの横に赤いテープが貼られていた。
澄香はそれを見た。
拾えば、顔が映る。ちゃみするだと分かる。大学の誰かに届くかもしれない。母にも、父にも、道哉を知らない人にも、好きな気持ちを笑う人にも届くかもしれない。何を言っても切り取られ、正義にも、炎上にも、ファン代表の声明にもされる。
そもそも、澄香には誰かを止める資格などなかった。女の子をここへ来させた言葉の一つは、自分のものだった。
だから拾わない理由なら、いくらでもあった。
また人が押した。
女の子が、割れたアクスタの袋を胸に抱いた。
澄香はメガホンを拾った。

スイッチを入れた。
キィン、と高い音がした。
全員が静かになったわけではなかった。それでも、近くにいた人が顔を上げ、その人を見た人が立ち止まり、止まった人の背中にぶつからないよう、さらに後ろの人が足を止めた。
「ちょっと待って。押さないでください」
「倒れてる人がいます。動画、今だけ下ろして。あとで見返せるから」
「紫の人、少し後ろに。白い服の人も、いったんそこで止まってください」
自分の声が、街の音の上に乗っていた。澄香は、逃げたくなった。
花道の中から、誰かが言った。
「ちゃみする?」
澄香は一度、目を閉じた。
「……ちゃみするです」
「この子、私の投稿も見て、今日ここに来たって言ってます」
「でも、ちゃみするのせいじゃないよ」
すぐに声が返ってきた。慰めるための声だった。澄香は、その優しさに少し泣きそうになり、それでも首を振った。
「誰のせいか決めたいんじゃないです」
「私、道哉くんを好きになったとき、道哉くんのために何かしようとか、そんな立派なこと、考えてなかったです」
「私が、ちょっと楽になりたかっただけです」
「明日も学校行けるかもとか、今日の自分も、そこまで変じゃないかもとか。あの人を見てる間だけ、自分のことを嫌いじゃなくなれたから、好きになりました」
どこまで話すつもりなのか、自分でも分からなかった。言葉はきれいな順番では出てこなかった。父の顔が見えた。白い服の集団の端で、絢子が倒れたバリケードに手を置いたままこちらを見ていた。怪我をした女の子は、透明な袋を握っていた。
「でも、いつからか、道哉くんを真ん中に置けば置くほど、好きってことになる気がして」
「お金とか時間とか、寝ることとか、友達とか。そういう、普通に明日も生きるのにいるものを、ちょっとずつ端っこに寄せて」
「気づいたら、私まで画面から見切れてたのかもしれない」
誰かが、小さく息を吐いた。笑ったのかもしれない。澄香も、自分で言っておかしいと思った。こんな場所で画角の話をしている。
でも、それがいちばん近かった。
「たぶん、最初は逆だったんです」
「道哉くんを見たから、私も自分の人生に戻ってみようって思えた」
「推すって、自分を消すことじゃなくて、自分の方に戻ってくるためのものだったんじゃないかなって」
「こっちが推してるつもりでも、ほんとは向こうから、心を押し返してもらってたんじゃないですか。ちゃんと自分のところに戻れって」
声が震えた。メガホンを両手で持ち直した。
「だから今日だけ、一回、自分を先にしませんか」
「怪我してないか見て、息できてるか見て、スマホの充電も、帰りの電車も確認して」
「近くに困ってる人がいたら、大丈夫ですかって聞いて」
「それで、明日になったら、また好きでいればいいじゃん」
「私もたぶん、明日も好きです」
拍手は起こらなかった。
一人がスマートフォンを下ろした。
別の一人が、後ろに向かって「下がって」と言った。その言葉がさらに後ろへ渡った。
絢子が、バリケードから手を離した。隣にいた女性の腕をつかみ、今度は前ではなく横へ引いた。
久保田は、救急車が通れる幅を確かめながら、澄香を見ていた。
澄香は最後に言った。
「好きなの、やめなくていいです」
「ただ、好きな人を真ん中に置くために、自分を画面の外に出さないで」
「今日は一回、自分を真ん中に戻そ」
言い終わったあと、自分で「戻そ」と言ったことが急に恥ずかしくなった。もっとちゃんとした言葉があったのではないかと思った。
けれど、女の子のそばにしゃがんだ女性が、もう一度「大丈夫ですか」と尋ねた。女の子は今度はアクスタではなく、自分の膝を見て、「痛いです」と答えた。
それでよかった。
救急車が出たあと、渋谷はすぐに渋谷へ戻った。
騒動の動画は、その日のうちにいくつもの短さへ切られた。道哉を見たという話は、結局、誰が何を見たのか分からないまま消えた。倫太郎の名前を叫んだ人がいたという投稿には、いた、いない、聞こえた、聞こえなかったという返信が続いた。
絢子は翌朝も仕事へ行った。電車の中で「倫太郎生存の新証拠」という通知が来た。通知を消したあと、昔の舞台映像を開いた。画面の中で倫太郎が笑った。絢子は、その笑顔が何かの証拠でなくても、最後まで見た。
久保田と澄香は、駅へ向かう途中で少しだけ並んで歩いた。
「さっきの子、大丈夫だって」
「うん」
それから澄香は、前を向いたまま言った。
「お父さん、あそこにいたんだね」
久保田は、しばらく黙っていた。
「いた」
それ以上は説明しなかった。澄香も、その日は聞かなかった。
父がどこまで関わったのか。自分の何を知っていたのか。聞かなければならないことは、あとでいくらでもあった。今すぐ全部を一つの答えにしてしまうより、疑問のまま持って帰る方が、自分のものになる気がした。
「友達と帰るから」
「分かった」
「お父さんも、ちゃんと帰ってね」
久保田は少し驚いてから、うなずいた。
数週間後、澄香はまた渋谷にいた。
道哉はまだ休んでいた。澄香は動画を見たし、紫色のものも買った。花道の投稿も続けていた。ただ、「来られる人は絶対に」と書きかけたときは、一度消した。
巨大な広告の掲出が終わる前に、仲間たちと写真を撮りに来た。
最初の一枚では、道哉の笑顔が画面の中央に大きく入り、澄香たちは下の方に小さく並んでいた。
澄香は写真を見て、スマートフォンを受け取った。
「もう一枚撮ろ」
置く場所を少し変えた。角度を下げ、道哉の広告を横へ残したまま、自分たちが真ん中へ来るようにした。
仲間の一人が、画面を覗き込んだ。
「あれ、道哉くんが端っこじゃん」
澄香はタイマーを押した。
「いや、今日はこれでいい」
急いで仲間の横へ戻った。画面の端で、道哉はいつものように笑っていた。
澄香はカメラの中の自分を見た。
満面の笑顔ではなくていいと思った。うまく笑えなくても、あとで撮り直さなくていいくらいでいい。
道哉の笑顔を横に置きながら、澄香は、自分も少し笑ってみた。
シャッターの音がして、渋谷の明かりが一瞬、みんなの顔の上で白く弾けた。